NOGE HISTORY
野毛のあゆみ

野毛の歴史のコラムです

「横浜道」

東海道から野毛、吉田町へ

「横浜道(よこはまみち)」。横浜に住んでいる人でも、あまり聞き覚えがない道の名前かも知れません。「横浜道」が作られたのは、安政5年(1858年)、日米修好通商条約調印によって250年の長きにわたる鎖国がいよいよ終焉を迎え、開国へと時代が大きく動いたころ。

アメリカの代表ハリスは、当初、江戸品川の開港を要求しました。幕府は将軍のお膝元に外国人が往来することを恐れ、江戸からもほどよく離れている神奈川を開港場として定めました。しかし、東海道の中でも比較的栄えていた神奈川宿周辺を開港すれば、外国人と住民の交流や、攘夷派とのトラブルが予想されます。そこで白羽の矢が立ったのが「横浜村」だったのです。

 江戸時代初期の大規模な埋め立て工事が行われるまでは、「横浜村」は大きな入海の湾入り口の部分を横切るようにあった、州干島(しゅうかんじま)と呼ばれていた砂州にありました。海苔やうなぎなどを特産品とする、わずか100戸程度の寒村です。江戸からもほどよい距離で、その地形から出島のように外国人の出入りを制限でき、居留地の警備も容易である「横浜村」は幕府にとってこれ以上ない格好の開港場でした。

 こうして幕府はわざと東海道から離れた横浜村を開港場として選んだものの、当時の「横浜村」への道のりは大変厳しいものでした。神奈川宿との間には野毛山があり、海沿いは断崖絶壁が続きます。入海を埋め立てた新田の広がる湿地帯は道らしい道もなく、大変な遠回りをして陸路を選ぶか、もしくは渡し舟で海路を選ぶしかありませんでした。(※①)その不便な交通の解消のため幕府は東海道と開港場を短距離で結ぶ「横浜道」の建設を決定したのです。

①:看板

②:浅間下から

③: 平沼橋

 そのルートは、神奈川宿と保土ケ谷宿の間にあった芝生村(いまの横浜駅近くの浅間町下交差点のあたり※②)から始まり、当時湿地帯だった岡野・平沼の新田を埋め立て、新田間川、平沼川、石崎川にそれぞれ新田間橋、平沼橋(※③)、石崎橋(現:敷島橋)を架け、戸部村へ。さらに戸部村から野毛山に切り通し(※④)を開き、大岡川に架けた野毛橋(現:都橋)を渡り、当時は入海だった吉田新田から架けられた太田橋(現:吉田橋※⑤)を終点としています。

④:野毛切り通し

⑤:吉田橋

この「横浜道」の建設によって、あたり一帯は交易の中心地となり、人の往来が次第に激しくなったため、橋のたもとに関所を設け、武士や町人の出入りを取り締まり治安を守りました。いつしかこの関所から馬車道側は関内、伊勢佐木町側は関外と呼ばれるようになり、明治4年に関所が廃止されたあともその名前は残り、現在に至っています。

⑥:神奈川奉行所

⑦:横浜道の目印

 「横浜道」の建設は、大きく人々のくらしと街のすがたを変えていきました。開港翌年の安政6年(1859年)には、横浜道から野毛・紅葉坂の途中(現:県立青少年センター横)には神奈川奉行所が設置されました。(※左)いまではランドマークタワーや高層ビルに阻まれ、かつての展望とは様変わりをしてしまいましたが、当時はこの高台から横浜港が一望できたため、外国船や港の監視にうってつけの場所でした。

 「横浜道」の沿道に位置する野毛や吉田町は、荷物を運ぶ労働者や開港場へと向かう人々が集まるようになり、大変な賑わいを見せました。人が集まるところには商売のチャンスもあります。茶店・天ぷら・鮨屋・団子屋・酒店など多くの商店が軒を連ね、芝居小屋や寄席などの娯楽施設も建てられ、開港からまもなく一気に活気あふれる街となりました。当時、吉田町を訪れた浮世絵師・五雲亭貞秀(ごうんていさだひで)は、当時ベストセラーになったと言われる『横浜開港見聞誌』という著書の中でその様子を「港崎がえりのかごやの声にまじえて駒下駄の音かまびすしく、高らかに騒ぎ歩く美女たち」と記しています。ちなみに吉田町は、横浜で初めてできた商店街とも言われています。

 こうして「横浜道」は横浜の発展に多大な貢献を果たした道でありますが、実はその工期はなんとたったの3ヵ月。というのも、前の日米友好通商条約には「神奈川 午三月より凡十五ヶ月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日」と開港の期日が示されており、7月4日の3ヵ月前、4月1日になってようやく幕府の正式決定がくだったためです。その日から、昼夜問わず必死の突貫工事が始まります。さらに2008年に発見された古文書によると、ある工事業者によって落札された工事が、下請け業者にどんどん丸投げされていく中で抜かれた金額が大きくなり、最終的に作業者に支払う資金が不足してしまったと書かれています。その結果、工事は停滞。一時は開港日になっても完成が間に合わないという緊急事態に陥り、困り果てた幕府は、保土ケ谷宿の名主だった苅部(かるべ)清兵衛に、諸外国に対して威光が保てないから何とかしてほしい!と泣きついたそうです。清兵衛は自ら借金をして工事を進め、開港1日前になんとか完成させたというエピソードも残っています。

 「横浜道」はその後、鉄道の普及など時代の変遷とともにその姿を変え、一部はいまでも幹線道路として市民のくらしを支えていますが、当時のままの面影を残す場所は多くはありません。しかし、大きな歴史の転換の一端を担った「横浜道」を歩けば、開港に沸く横浜を行き交う人々と町の賑わいの声が自然と聞こえてきそうです。


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